2022年03月25日
琉球(沖縄)歴史探訪① 青い目が見た「大琉球」編

こんばんは、Nike Man です。
以前から欲しかった本、青い目が見た「大琉球」の本を古本屋さんで、本日ゲットいたしました!
少々お高めなので、ちょっと手を出せないでいたのですが、最近歴史のお勉強をしているので購入いたしました。
この教科書を使って、およそ200年前の琉球と現在の沖縄を比較し、シリーズでご紹介してみようかなと思っています。
■ 泊高橋

コチラの絵は、1818年バジル・ホールが描いたものです。
おそらく、天久側から泊高橋方面を描いていると思われます。
現在の泊高橋。


右側の大きなマンションの方から見た泊高橋。


ここで、泊高橋の説明をいたします。
安里川の河口に架けられた泊村と泊兼久を結んだ橋のことです。
琉球王朝の時代は木造橋でしたが、1700年に石橋へ改修され、舟の往来のため高いアーチを伴ったことから泊高橋と呼ばれました(「泊高橋碑文」)。
昭和になった1934年にコンクリート橋に改装されました。200年以上使用された頑丈な石橋でした。コンクリートで改修する際、石組みがあまりにも精密だったため、その工事は難航を極めたそうです。
橋は那覇から泊、さらに沖縄本島中部へと抜ける交通の要衝であるだけでなく、橋の袂に敷場(薪などの木材集積地)が設けられるなど海運・水運の結節点としても栄えました。
1844年に来琉し泊の聖現寺(天久寺)に滞在したイギリス人バジル・ホールは、泊高橋を遠望し「天下の公道」とも述べ、石積みを測量して詳細なスケッチを残しています。橋は、戦前にコンクリート製に架け替えられ、戦後も国道58号線が通るなど交通の要地となっています。
■ 沖縄・首里那覇港図屏風展
コチラが、1816年10月24日にバジル・ホールが描いた泊高橋の図。
橋の石を一つ一つ測定して描いたということで、石の形と数に至るまで精度の高いものとされています。
船が通る際、ひっかからないように高くしてあるから高橋と言うのですね。

大正初期、泊高橋の横を沖縄電気軌道の路面電車が走っています。(1914-1933)

沖縄戦で破壊されてしまった、泊高橋。

■ 崇元寺
崇元寺(琉球語:スーギージー)は、那覇市泊にあった臨済宗の仏教寺院。
琉球王国の国廟で、舜天から尚泰王までの歴代国王の神霊位が祀られていた。創建は、1527年(嘉靖6年)と推定される。
現在は、国指定の重要文化財になっている。

コチラは、1877年5月にレベルテガットによって描かれた崇元寺石門です。
ギヤマードによりますと、那覇から首里の道路は、珊瑚石灰岩できれいに敷き詰められている。
駕籠(かご)かきは、その熱い石の上を素足で何の苦もなく走り抜ける。まったく呆れかえったものだと記しています。
現在の崇元寺石門。およそ150年前とあまり変わっていない気がします。


↑ 反対側から描いたエドワード・カーンによって描かれた崇元寺の水彩画(1854年12月)ボストン美術館所蔵。
ベイヤード・テイラーによると、その風景の織りなす絶妙な調和。新緑の木の葉のまぶしいばかりの青さ。そして、潮の香りを乗せて吹いてくる甘く、まろやかな風が、天国を垣間見たかのように、魂を奪う。とあります。
現在の様子。

左側に見えるビルがあるのですが、当時は何もなくすぐ側に海とつながっている川があり、エドワード・カーンの描いた絵の左側奥には、崇元寺橋も見えます。「潮の香り」とあるので、当時はまだ海が近かったことを物語っていますね。
■ 牧港(マチナト)

1853年6月4日午前11時から正午まで、探検隊は牧港の大岩を正面に眺めながら、休息をとった。
見事な橋と、土手道と運河の造りは、当時の秀れた土木技術の粋を誇っている。
ハイネは、絵を描きながら昼食をとったが、ハイネが座って昼食をとった場所に、現在A&Wドライブインがあり、多くの若者たちが何も知らずに、ハンバーガーを楽しんでいる。
残念なことにハイネは、約170年間ハンバーガーを待つ余裕はなかった。
探検隊は、時間に追われてあたふたと泊に戻らねばならなかったのだ。
この絵が、奥地探検で残したハイネの最後の絵となった。
現在の牧港。


現在も大岩は現存するが、左半分は壊されて国道ができ、大岩の上に介護老人福祉施設が建っている。
■ バナー・ロック(ペリーの旗立岩)中城

探検隊は、1853年5月31日バナー・ロックと名付けた岩山に登った。
午前10時から11時まで、岩山の周囲で時を過ごした。岩山の頂上で旗を握っているのが、ベイヤードテイラーで麓で銃砲を撃っていうのは、ハンティングのためではなく、岩山を征服を記念して、祝砲を撃っているのである。この”旗岩”は、中城村新垣のすぐ北側に今も残っている。

↑ 現在の旗立岩。ボクも中城のハンタ道を歩き続けて、コチラへ訪ねたことがあります。初めて行くとちょっと分かりにくいかもしれません。
■ ペリーの旗立岩の基本情報
あまり知られていませんが、ペリーらが琉球に来た際、友好的というより侵略しに来ている感じが裏歴史にあります。
・ペリーが琉球に上陸したのは、石炭、食料、水などを確保するためで、探検隊と称したのは、船の燃料である石炭の確保のための地質調査が目的だった。
・一部の兵士達は粗暴で、略奪、強盗事件を起こす。地質調査の探検隊の水兵が、恩納村の番所に押し入り、酒を要求した。酒がないと分かると、人家に侵入して酒を要求したが、誰も与えなかったので、通行人に発砲するという傷害事件を起こした。三人がケガを負った。
・水兵による女性暴行事件が起きた。民家に上がりこんで酒を強要して泥酔し、女性に乱暴した。騒ぎを聞きつけた住民は、逃げる水兵を追い詰めたところ、海に落ちて溺死してしまう。ペリーは被害者に謝罪どころか、水兵を殺害した住民を裁判にかけ、八重山への終身流刑を言い渡した。
ペリー来航によりもたらされた一連の事件は、琉球の人々の平和な生活を脅かした異常な事態であった。これらの事件は、歴史の表舞台には登場しない。
■ むか~し話「ペリーの旗立岩」 - 沖縄移住始めました
いかがでしたか?
もっと、紹介したいところはあるのですが、ちょっと長くなってしまいますので、今日はこの辺で。

コチラの絵は、1818年バジル・ホールが描いたものです。
おそらく、天久側から泊高橋方面を描いていると思われます。
現在の泊高橋。


右側の大きなマンションの方から見た泊高橋。


ここで、泊高橋の説明をいたします。
安里川の河口に架けられた泊村と泊兼久を結んだ橋のことです。
琉球王朝の時代は木造橋でしたが、1700年に石橋へ改修され、舟の往来のため高いアーチを伴ったことから泊高橋と呼ばれました(「泊高橋碑文」)。
昭和になった1934年にコンクリート橋に改装されました。200年以上使用された頑丈な石橋でした。コンクリートで改修する際、石組みがあまりにも精密だったため、その工事は難航を極めたそうです。
橋は那覇から泊、さらに沖縄本島中部へと抜ける交通の要衝であるだけでなく、橋の袂に敷場(薪などの木材集積地)が設けられるなど海運・水運の結節点としても栄えました。
1844年に来琉し泊の聖現寺(天久寺)に滞在したイギリス人バジル・ホールは、泊高橋を遠望し「天下の公道」とも述べ、石積みを測量して詳細なスケッチを残しています。橋は、戦前にコンクリート製に架け替えられ、戦後も国道58号線が通るなど交通の要地となっています。
■ 沖縄・首里那覇港図屏風展
コチラが、1816年10月24日にバジル・ホールが描いた泊高橋の図。
橋の石を一つ一つ測定して描いたということで、石の形と数に至るまで精度の高いものとされています。
船が通る際、ひっかからないように高くしてあるから高橋と言うのですね。

大正初期、泊高橋の横を沖縄電気軌道の路面電車が走っています。(1914-1933)

沖縄戦で破壊されてしまった、泊高橋。

■ 崇元寺
崇元寺(琉球語:スーギージー)は、那覇市泊にあった臨済宗の仏教寺院。
琉球王国の国廟で、舜天から尚泰王までの歴代国王の神霊位が祀られていた。創建は、1527年(嘉靖6年)と推定される。
現在は、国指定の重要文化財になっている。

コチラは、1877年5月にレベルテガットによって描かれた崇元寺石門です。
ギヤマードによりますと、那覇から首里の道路は、珊瑚石灰岩できれいに敷き詰められている。
駕籠(かご)かきは、その熱い石の上を素足で何の苦もなく走り抜ける。まったく呆れかえったものだと記しています。
現在の崇元寺石門。およそ150年前とあまり変わっていない気がします。


↑ 反対側から描いたエドワード・カーンによって描かれた崇元寺の水彩画(1854年12月)ボストン美術館所蔵。
ベイヤード・テイラーによると、その風景の織りなす絶妙な調和。新緑の木の葉のまぶしいばかりの青さ。そして、潮の香りを乗せて吹いてくる甘く、まろやかな風が、天国を垣間見たかのように、魂を奪う。とあります。
現在の様子。

左側に見えるビルがあるのですが、当時は何もなくすぐ側に海とつながっている川があり、エドワード・カーンの描いた絵の左側奥には、崇元寺橋も見えます。「潮の香り」とあるので、当時はまだ海が近かったことを物語っていますね。
■ 牧港(マチナト)

1853年6月4日午前11時から正午まで、探検隊は牧港の大岩を正面に眺めながら、休息をとった。
見事な橋と、土手道と運河の造りは、当時の秀れた土木技術の粋を誇っている。
ハイネは、絵を描きながら昼食をとったが、ハイネが座って昼食をとった場所に、現在A&Wドライブインがあり、多くの若者たちが何も知らずに、ハンバーガーを楽しんでいる。
残念なことにハイネは、約170年間ハンバーガーを待つ余裕はなかった。
探検隊は、時間に追われてあたふたと泊に戻らねばならなかったのだ。
この絵が、奥地探検で残したハイネの最後の絵となった。
現在の牧港。


現在も大岩は現存するが、左半分は壊されて国道ができ、大岩の上に介護老人福祉施設が建っている。
■ バナー・ロック(ペリーの旗立岩)中城

探検隊は、1853年5月31日バナー・ロックと名付けた岩山に登った。
午前10時から11時まで、岩山の周囲で時を過ごした。岩山の頂上で旗を握っているのが、ベイヤードテイラーで麓で銃砲を撃っていうのは、ハンティングのためではなく、岩山を征服を記念して、祝砲を撃っているのである。この”旗岩”は、中城村新垣のすぐ北側に今も残っている。

↑ 現在の旗立岩。ボクも中城のハンタ道を歩き続けて、コチラへ訪ねたことがあります。初めて行くとちょっと分かりにくいかもしれません。
■ ペリーの旗立岩の基本情報
あまり知られていませんが、ペリーらが琉球に来た際、友好的というより侵略しに来ている感じが裏歴史にあります。
・ペリーが琉球に上陸したのは、石炭、食料、水などを確保するためで、探検隊と称したのは、船の燃料である石炭の確保のための地質調査が目的だった。
・一部の兵士達は粗暴で、略奪、強盗事件を起こす。地質調査の探検隊の水兵が、恩納村の番所に押し入り、酒を要求した。酒がないと分かると、人家に侵入して酒を要求したが、誰も与えなかったので、通行人に発砲するという傷害事件を起こした。三人がケガを負った。
・水兵による女性暴行事件が起きた。民家に上がりこんで酒を強要して泥酔し、女性に乱暴した。騒ぎを聞きつけた住民は、逃げる水兵を追い詰めたところ、海に落ちて溺死してしまう。ペリーは被害者に謝罪どころか、水兵を殺害した住民を裁判にかけ、八重山への終身流刑を言い渡した。
ペリー来航によりもたらされた一連の事件は、琉球の人々の平和な生活を脅かした異常な事態であった。これらの事件は、歴史の表舞台には登場しない。
■ むか~し話「ペリーの旗立岩」 - 沖縄移住始めました
いかがでしたか?
もっと、紹介したいところはあるのですが、ちょっと長くなってしまいますので、今日はこの辺で。
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